心は身体の抽象であり、身体は心の具象である
心は欲求の束であり、それは身体に由来する抽象である。身体はその心の具象化物である。
現代の西洋自然科学において、心と物質では、物質が先であるとされる。宇宙の始まりにおいて、物質が先に立ち、心は後に生まれた、と。東洋宇宙哲学においては、心が先に在り、物質は心によって生み出されたとされる。
いずれも心と身体は別々のものだとしている。気分の落ち込みは心の問題として扱い、身体が重ければフィジカルの問題として切り分けるように。しかし本来、この二つは分離して捉えるような関係ではない。もっと端的に言えば、心とは身体の抽象であり、身体とは心の具象である。同じものを、異なるフィルターで捉えているに過ぎない。
たとえば「不安」という心の状態があるとする。そのとき身体はどうなっているかといえば、呼吸は浅くなり、肩や首は緊張し、視野は狭くなっている。逆に、身体をゆるめて呼吸を深く整えれば、不安という感覚も変化していく。これは心が身体(物質)に影響しているだけではなく、身体が心に影響しているだけでもない。もともと一つの現象が、抽象と具象という異なる形で感知されているのだ。
人はしばしば、心を直接操作しようとする。ポジティブに考えよう、気分を切り替えよう、やる気を出そうとする。しかしそれがうまくいかないのは当然でもある。抽象を直接いじろうとしているからだ。抽象は操作対象ではなく、具象の連関として現れる。つまり、心を変えたければ身体から整える方が現実的であり、取り組み易い。同時に、身体を変えようとするなら、そこに通っている意図や認識、すなわち心の質も無視することはできない。
武術の世界では、この関係は極めて実践的な意味を持つ。どれだけ正しくフォームを真似ても、内側の意図が伴っていなければ動きは形骸化する。逆に、意図だけがあっても身体がそれに応じて動かなければ、技は機能しない。動きとして成立するためには、抽象としての心と具象としての身体が一致していなければならない。この一致の度合いこそが、そのまま技の質となって現れる。
日常生活においても同じことが言える。姿勢が崩れているとき、多くの場合それは単なる身体の問題ではない。注意は散漫になり、思考は曖昧になり、判断は鈍っている。逆に、背筋が自然に伸び、呼吸が整っているとき、思考はクリアになり、余計な感情は静まりやすくなる。ここでもやはり、心と身体は別々に存在しているのではなく、同一のものが異なるレイヤーで現れているのだ。
だからこそ、心身は同時に整える必要がある。どちらか一方だけを扱う発想では、もう一方とのズレが生じ、その歪みはいずれ全体に影響を及ぼす。心を整えたければ身体を整え、身体を整えたければ心のあり方にも目を向ける。この往復を繰り返すことで、抽象と具象のズレは少しずつ減っていく。
最終的に目指すのは、心が止滅し、身体が自然に還った状態である。それは、本来の自己とも言える。余計な力みや無駄な思考が削ぎ落とされ、抽象から利己的意図が消える。具象は本来の自己と直結する。そのとき人は、自分の内側と外側、自己と世界が分断されていない感覚を持つようになる。
心は身体の抽象であり、身体は心の具象──この関係を理解し、体感として深めていくことは、自分自身をより正確に扱うための鍵となる。心を変えようと焦る必要も、身体を無理に鍛え上げる必要もない。ただ、同じものの二つの側面として見つめ、整えていけばいい。その積み重ねが、無理のない変化と、本来の自己への道となる。
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心身を本来の自己へ還す
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