オカルトと現実を結ぶ「気」・量子
「気」という概念は古代から語り継がれてきた。東洋において、気は生命の根源であり、自然と人間のあいだに流れる目に見えぬエネルギーとして捉えられている。東洋医学、武術、道教、さらには日本の武道や書道に至るまで、「気」はその中心にある。それは単なる信仰や比喩ではなく、修練を通じて誰もが実感し得る、ある種の現象として語られる。現代科学では説明しきれない体験がそこにはある。
一方で、近代科学は物質とエネルギーを数量化し、観測と再現性を重視する方法で世界を理解してきた。その結果として、目に見えず、測定器でとらえにくい「気」は長く非科学的とされ、オカルトの領域に追いやられてきた。しかし近年、量子物理学の発展とともに、我々の常識では理解できない現象が数多く明らかになってきている。粒子が観測によって状態を変える、離れた場所にある粒子同士が瞬時に影響し合う、あるいは真空にさえエネルギーが潜在しているといった量子世界の奇妙な振る舞いは、古来の「気」の概念とどこか通底するものを感じさせる。
量子論において、「現実」は観測者の関与によって形を変える可能性があることが示唆された。もしこれが真実なら、我々が意識的に発する「気」や「念」もまた、物理世界に影響を与える原因の一部である可能性がある。もちろん、現在の物理学は「気」の概念をそのまま取り込んでいるわけではないが、量子の世界が描き出す多層的であいまいな現実像は、「気」が存在する余地を広げつつある。
「気」は単なるエネルギーではない。それは意志と結びつき、身体と精神、内と外を貫く媒体である。たとえば武術において、相手の意図を読む、先を取る、動きを封じるといった技術は、筋力や反射神経だけでは説明できない精妙な相互作用の上に成り立っている。そこには「気」の存在を前提としなければ説明のつかない現象がある。これを主観の錯覚だと切り捨てるのは簡単だが、その現象が一貫性と再現性を伴っている限り、そこには何らかの因果的実在や観測可能性が介在しているはずだ。
科学とは、未知を排除する営みではなく、未知を正確に捉える枠組みを広げる営みではないか。今、「気」という現象が、量子の視点を通じて新たな科学の地平を開きつつある。オカルトとは、未だ科学の光が届いていない領域を照らす仮の言葉にすぎないかもしれない。我々はいま、「気」と量子をつなぐ橋を渡ろうとしている。その先に見えるのは、心と物質、主観と客観が分かちがたく結ばれた、より統合された世界観なのかもしれない。
=======
著作物紹介:
※kindle unlimited にご登録中の方は全て無料で読めます。(未登録の方は30日間無料体験を使えば無料で読めます)
空手家との組手や演武などの動画は下記サイトでご覧いただけます。
(武術気功健康教室|大阪府四條畷市)