非聖非俗で生き抜く
「非聖非俗」──これは親鸞聖人の「非僧非俗」に由来する概念で、「聖人でもなく、世俗的でもない」という生き方を指す。現代社会において、この境地は、我々の生き方に重要な示唆を与えてくれる。
我々は様々な二元的価値観の狭間で生きている。善と悪、成功と失敗、富裕と貧困、名声と無名。こうした対立する概念に縛られると、自分の人生を十分に味わうことができなくなる。こうした二項対立から解放され、自然なバランスを取りながら生きる道といえる。
聖人のように完璧であろうとすることは、自分自身を追い詰め、結果として生命力を削ぐことになりかねない。一方で、単なる世俗的欲望に身を委ねれば、心の平安は得られないだろう。この両極端を避け、中庸の道を往く。
武術の世界では、この考え方は「無心」や「平常心」として表現される。制心道の修練においても、過度に自分を追い込むのではなく、かといって怠惰に流れるのでもなく、ただ自然なリズムで日々淡々と鍛練を続けるのが望ましい。站樁(タントウ:立禅)などを実践する時も、完璧な姿勢を追求するあまり身体を緊張させるのではなく、かといって形だけで内容のない練習に陥るのでもなく、ただ今この瞬間を味わいながら修行を楽しむことが秘訣である。
老子は「為さずして成す」(無為自然)と説いた。これは何もしないという意味ではなく、自然の流れに逆らわない行動の在り方といえる。「非聖非俗」もまた同様に、極端な努力や放棄ではなく、自然な調和の中で生きることを教えている。
日常生活においても、この考え方は応用できる。仕事に過度に打ち込んで健康を損なうこともなく、かといって責任から逃げることもしない。家族との関係でも、過保護でも無関心でもない。自分自身に対しても、過度に厳しくも甘過ぎでもない、という具合に。
実際には、このような道を歩むのは容易ではないかもしれない。我々は常にバランスを崩しがちだからだ。しかし、その中間を意識し続けることそのものが、すでにその実践といえるだろう。
自衛瞑想(制心道)の本質も、この志向にある。身体の中心と心(こころ)を同時に制することで、極端に走らない安定した生き方を目指す。站樁などの修練で培われる集中力は、日々の選択において中庸を見極める力となるはずだ。
人生において理想を持つことは大切だが、その理想に囚われ過ぎては窮屈になる。世俗的な楽しみを味わえることも素晴らしいが、それに溺れていては堕落する。「非聖非俗」とは、こうした二元的対立を超えた境地において、真に自由に生きることなのだ。
日々の暮らしの中で、時に立ち止まり、自分の在り方を振り返ってみる。上昇志向が強すぎないか、あるいは世俗に流されすぎていないか。程よくその間を往くことで、より調和のとれた、本来の自分らしい生き方が見えてくるかもしれない。
少なくとも、武術の修練者として目指すべきは、この境地といえる。でなければ修練を長く続けることは叶わない。事実、私の年齢まで続けている者はほとんどいない。これは武術だけでなく、人生そのものの在り方に関わる智慧となり得るだろう。
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(武術気功健康教室|大阪府四條畷市)