ロックは反体制であるべきか
この問いは、ロックという表現の本質をどこに置くかによって、まったく異なる答えを導き出す。
ロックの歴史を振り返れば、その出発点には確かに「反体制」の精神があった。既存の価値観に対する違和感、社会の不条理への怒り、若者の抑圧されたエネルギー。それらが音として爆発したのがロックであり、単なる音楽ジャンルではなく、一種の態度や生き方でもあった。体制に迎合せず、自分の内側から湧き上がるものをそのまま表現する。その姿勢が、多くの人にとってのロックの原型となっている。
しかし、ここで一つの疑問が生じる。「反体制であること」自体が目的化したとき、それはすでにロックたり得るのかという点だ。本来、ロックが持っていたのは「何かに反対すること」ではなく、「自分に嘘をつかないこと」だったはずだ。結果として体制と対立することはあっても、それはあくまで副産物であり、本質ではない。
もし「ロックとは反体制であるべきだ」という固定観念に縛られてしまえば、それはそれで一つの“体制”になってしまう。反抗の形式をなぞることが目的になり、内側からの必然性が失われる。そこにはもはや自由はなく、ただの様式が残るだけだ。革ジャンを着て、社会に対して怒りを表明することが「正しいロック」とされるなら、それは別の意味での同調圧力に過ぎない。
一方で、現代においては、かつてのように明確な「敵」としての体制が見えにくくなっている。価値観は多様化し、表現の自由もある程度は確保されている。その中で「とにかく反対する」という姿勢は、むしろ空虚に響くことすらある。反体制であること自体にリアリティが伴わなければ、それはただのポーズになってしまう。
では、ロックは何であるべきか。結局のところ、それは「べき」で定義されるものではないのだろう。ロックとは本来、外側から規定されるものではなく、内側から滲み出るものだ。社会に対して怒りを感じるなら、それをぶつければいいし、何かを肯定したいなら、それを歌えばいい。重要なのは、その表現がどれだけ切実であるか、どれだけ偽りがないかという点にある。
反体制であるロックも、体制と共存するロックも、どちらも存在し得る。ただし、そのどちらであっても「本音から出ているかどうか」が問われる。形式としての反抗ではなく、実感としての表現であるかどうか。その一点においてのみ、ロックは生きる。
結局のところ、ロックは「反体制であるべきか」という問いに答えるものではなく、その問い自体を突き破る力を持っている。何かに従うためではなく、何かに逆らうためでもなく、自分の内側にあるものをそのまま鳴らす。その結果として体制と衝突するなら、それがロックになるだけの話だ。
=======
自分の内側を観察する
瞑想トレーニングに興味がある方はこちら
↓ ↓ ↓
LINEオープンチャット
「武術瞑想トレーニング交流会」
著作物紹介:
※kindle unlimited にご登録中の方は全て無料で読めます。(未登録の方は30日間無料体験を使えば無料で読めます)
「リーダーのための瞑想トレーニング」
「あなたの知らない非常識な幸せの法則」
「超速化時代の冒険:AIライティングと武術気功の叡智」
「AIライティング最速出版術」
空手家との組手や演武などの動画は下記サイトでご覧いただけます。
(武術気功健康教室|大阪府四條畷市)

