武術に試合は要らないが自由組手は要る
武術に「試合」は要らない。しかし「自由組手」は必要だ。これは矛盾した主張のように聞こえるかもしれないが、武術の本質を考えれば、極めて自然な結論である。
試合とは、勝敗を明確に決めるためにルールが整備された場である。安全性、公平性、観客性を優先し、時間制限や有効打の定義、反則の範囲まで細かく規定されている。そこでは「勝つために何をするか」が最重要になる。ルールに最適化された技術、戦術、身体操作が発達し、本来の生存のための技、すなわち急所攻撃・関節破壊・不意打ち・場の支配といった「使えない技」が自然と排除されていく。競技としては洗練されるが、武術(危険技への対処術)ではなくなってしまう。
一方で自由組手は違う。そこには勝敗を決めるためのルールは必要ない。観客もトーナメントも、審判もポイントもない。ただ「生きた相手」と向き合い、刻々と変化する圧、間、気配、呼吸、視線を感じ取りながら、自分の中心を保ち続ける時間がある。自由組手の目的は、勝つことではなく「ランダム」「リアルスピード」の攻防で有効な技の検証にある。つまり、互いの技の実戦性を試す場なのだ。
試合では、自分の弱点を隠す技術が上達する。型にはまり、勝ちパターンを磨き、その枠内で完成度を高めていく。しかし自由組手では、隠していたものが否応なく露呈する。恐怖、緊張、怒り、焦り、慢心。そうした心の揺らぎが秒速で身体に伝わり、姿勢が崩れ、視野が狭くなり、判断が遅れる。だからこそ自由組手には価値がある。己の本当の未熟さを実体感できる、数少ない稽古だからだ。
武術は「戦うため」の技術ではあるが、「勝つため」の技術ではない。目的は生存であり、回避であり、最小の力で最大の安全を確保することにある。試合は勝敗を明確にするために危険な技を排除するが、現実の危険はむしろその「排除された領域」に潜んでいる。自由組手は、その領域に足を踏み入れないための感覚を育てる稽古である。戦わないために戦うという、一見逆説的だが極めて合理的な訓練だ。
だから武術に試合は要らない。速くて強力な攻撃技も不要だ。勝ち負けに心を縛られる必要はない。しかし自由組手は要る。ゆえに必要なのは完璧な防御術…特に攻防一致の対打撃防御術である。完璧な防御があれば、相手の攻撃(隙)に合わせて「コツン」と急所を突くことも容易だ。「コツン」でも動きが止まるのが急所であり、そこを突かれたら、武術家としては「死んだ」と思わねばならない。
厳しく聞こえるかもしれないが、この自由組手を受けられない者に武術家を名乗る資格はない。私は偽物なのに有名となるより、誰にも知られずとも本物の武術家を目指し続ける。生きた圧力の中で心身を崩さない力は、机上でも型稽古でも身につかない。相手と向き合い、自分と向き合い、自分の弱さと戦い続ける場こそが、武術を武術たらしめている。試合はなくてもいい。だが自由組手がなければ、武術はただの運動、パフォーマンスに堕してしまうだろう。
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