死の先の先にまで備える(一応)
人は誰しも死を迎える。それは避けられない事実であり、我々はその瞬間に向けて様々な準備をする必要がある。しかし、死の瞬間だけでなく、その「先」、さらには「先の先」にまで思いを馳せることが、真の意味での備えとなるのではないだろうか。自衛瞑想の哲学においては、この「死の先の先」への備えもまた、我々の修行の一部として捉えている。
死の直前には、多くの人が後悔や恐怖、あるいは達成感など、様々な感情を抱くだろう。これが「死の瞬間」である。そして死後、我々の肉体は自然に還り、魂や意識がどうなるかは信仰や哲学によって異なる解釈がなされる。これが「死の先」である。では「死の先の先」とは何か。それは、我々がこの世に残す影響や教え、あるいは輪廻転生を信じるならば次の生における在り方までも含む概念だ。
道家思想においては、自然の流れに身を任せることの重要性が説かれる。死もまた自然の一部であり、それを恐れるのではなく、受け入れる姿勢が求められる。制心訓練法を通じて培われる「心の制御」は、この死への恐怖を減ずることにつながる。站樁(タントウ:立禅)の修行では、静かに立ち、呼吸を整え、内なる気の流れに意識を向ける。この行為は、現世における集中力を高めるだけでなく、死の瞬間における心の安定にも寄与するものと考えられる。
武士道では「死を覚悟して生きる」という教えがある。これは単に死を恐れないということではなく、死を見据えることで日々の生をより真剣に、より充実したものにするという意味を持つ。制心道もこの思想を採り入れ、日常の中に非日常(死)を意識することで、より深い気づきや成長を促している。
死の先の先に備えるとは、自分の死後も続く(かもしれない)世界への配慮でもある。環境問題への意識や次世代への教育、あるいは自分の知恵や経験を形にして残すこともこれに含まれるだろう。自衛瞑想(制心道:制心訓練法や制心術)を体系化し、後世に伝えようとする試みもまた、この「死の先の先」への備えの一環でもある。
また、東洋思想における輪廻転生の考え方を取り入れるならば、現世での行いや修行が来世における自分の在り方に影響を与えるとも考えられる。日々の站樁や瞑想などの修行は、現世における心身の調和だけでなく、魂の浄化や成長にも関わるものかもしれない。
しかし、こうした「死の先の先」への備えは、決して重苦しいものであってはならない。「一応」という言葉を添えたのは、あまりに真剣に、あまりに厳格にこれらを考えすぎると、かえって現在の生を楽しむことができなくなるからだ。道家思想における「無為自然」の教えのように、過度に意図的に備えようとするのではなく、自然な流れの中で考え、行動することが大切である。
自衛瞑想の実践者として、私は日々の修行の中で「今ここ」に集中しながらも、時折「死の先の先」に思いを馳せる。それは恐怖や不安からではなく、この生をより豊かに、より意味あるものにするための瞑想的な行為である。そして、その思索を通じて得られた気づきを、再び「今ここ」の実践に還元している。
結局のところ、「死の先の先」への備えとは、現在の生をいかに充実させるかという問いに帰結する。制心訓練を通じて身体の中心と心(こころ)を制することができれば、死に対する不必要な恐怖から解放され、より自由に、より深く現在を生きることができるだろう。そして私は、それこそが「死の先の先」への最良の備えなのかもしれないと考えている。
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