一生かけて追い続けた何かが無意味であったとしても

それだと、人生自体も無意味──?

人は往々にして、「これこそ自分の人生だ」と思える何かを見つけ、それを追い続ける。仕事かもしれないし、研究や芸術、信念や思想、あるいは人間関係や理想の生き方かもしれない。それがあるから踏ん張れるし、迷いながらも歩みを止めずに済む。むしろ、そうした拠り所がなければ、人は長い年月を充実させて生き抜くことが難しいのだろう。

だが皮肉なことに、人生のどこかで、その「信じたもの」「追い続けた何か」が揺らぐ瞬間に出会うことがある。価値観の変化、社会の変動、健康や環境の変化、あるいは単純に自分の成熟によって、かつて絶対と思えたものが色褪せる。あるいは、思っていたほどの意味も成果もなかったと気づくことさえある。そのとき、人は深い虚無感に襲われる。「これまでの年月は何だったのか」と。

しかし、本当にそれは無意味だったのだろうか。結果だけを基準にすれば、そう見えることはある。目標に到達できなかった、社会的評価を得られなかった、あるいは目標そのものが幻想だったと分かった場合、努力の総体が無価値に感じられるのも無理はない。だが人生という営みは、成果だけで測れるほど単純ではない。

何かを追い続けた時間の中で、人は必ず変化している。技術や知識だけではなく、物の見方、耐える力、人との関わり方、そして自分自身への理解が深まっている。その過程で出会った人、経験した葛藤、乗り越えた壁、それらはたとえ最初の目標とは別の形になっても、人格の一部として残る。つまり、追い求めた対象そのものよりも、「追い求めたという経験」自体が人生の核になることも少なくない。

さらに言えば、「無意味だった」と感じる認識自体も、その人が歩んできたからこそ生まれる洞察だ。浅い経験しかなければ、そもそも意味や無意味を深く考える地点に立てない。ある意味で、それは成熟の証とも言える。理想を絶対視していた頃から、より広い視野を持てるようになったとも解釈できる。

そしてもう一つ大切なのは、人は過去を後から再編集して生きているということだ。かつて無意味に見えた経験が、後年になって思わぬ形で活きることは珍しくない。直接的な成果でなくとも、誰かの助言に使えたり、新しい挑戦の基盤になったり、自分の人生観を支える静かな柱になることもある。意味は固定されたものではなく、時間とともに生成され直すものなのだろう。

それでもなお、「無意味だった」と感じる瞬間の痛みは軽くない。その感覚を無理に否定する必要はないと思う。むしろ、その喪失感を通して初めて見える風景もある。人は何かを手放したとき、新しい余白を得る。その余白が次の探求を呼び込むこともあるし、ただ静かに生きるという選択を受け入れる契機になることもある。

結局のところ、人生は最初から意味が決まっているものではなく、歩みの中で意味を見出し続ける営みなのだろう。一生かけて追い続けた何かが最終的に期待した形で実を結ばなかったとしても、その過程で培われたもの、感じたこと、出会った人々、そして何より「真剣に生きた記憶・時間・事実」は消えない。意味は対象に宿るのではなく、その人の生き方の中に滲み出るものだからだ。

だからもし、長年追い続けたものに疑問を感じたとしても、それを「無意味だった」と断じてしまう必要はない。そこまで歩んできた自分を認め、その経験ごと抱えて次へ進めばいい。意味とは結果のラベルではなく、生きた時間そのものの質に宿るのだと思う。

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