幻なのは心か、心以外か
我々はしばしば「この世界は幻だ」「すべては心が作り出している」といった言葉に惹かれる。苦しみの正体を見抜き、執着から自由になるための知恵として、それらは確かに力を持つ。しかし、その言葉を鵜呑みにした瞬間、思考は危うい方向へ傾き始める。幻なのは心なのか、それとも心以外なのか。この問いは、単なる哲学的遊戯ではなく、生き方そのものを左右する分岐点にある。
まず確認しておきたいのは、我々が直接触れていると思っている「現実」は、常に心を通過した後の像であるという事実だ。同じ出来事を見ても、ある人は希望を感じ、別の人は絶望する。怒りに満ちた心で見れば世界は敵だらけになり、落ち着いた心で見れば同じ世界が穏やかに映る。この意味において、世界が「心の投影」であるという表現は間違っていない。苦しみの多くが、出来事そのものではなく、それに対する解釈から生じているのも確かだ。
だが、ここで一歩踏み外すと、「世界など存在しない」「すべては心の幻想だ」という極端な結論に飛びついてしまう。これは一見、悟りのように聞こえるが、実際には思考の逃避であることが多い。なぜなら、心がどれほど世界を歪めて認識していようと、心以外の何かがなければ歪めようがないからだ。石につまずけば痛みは生じ、刃物に触れれば血が出る。その現実性まで否定するなら、そこにはもはや「気づき」ではなく、現実から目を背けるための観念しか残らない。
では、幻なのは何なのか。答えは意外にも地味だ。幻なのは「心が作り出した解釈」そのものであり、心そのものでも、世界そのものでもない。心は本来、外界からの情報を受け取り、状況に応じて反応する働きにすぎない。ところが、人は過去の記憶や恐れ、期待を無自覚に重ね合わせ、「こうに違いない」「これは危険だ」「自分は否定された」という物語を瞬時に作り上げる。その物語こそが幻であり、我々を苦しめる正体だ。
この視点に立つと、「心を消す」「心を否定する」といった発想がいかに不自然かが見えてくる。心は敵ではない。暴走しているのは、心の働きを監督せず、物語を事実と混同している状態だ。重要なのは、心をなくすことでも、世界を否定することでもなく、「これは事実か、解釈か」を見分ける力を育てることにある。
武術瞑想の稽古が示唆的なのは、まさにこの点だ。相手の動きを「怖い」「強そうだ」と解釈した瞬間、身体は硬直し、判断は遅れる。だが、動きをそのまま観察できているとき、余計な恐怖は生じない。そこにあるのは現実であり、幻は入り込む余地を失う。これは精神論ではなく、極めて実践的な認識訓練である。
結局のところ、「幻なのは心か、心以外か」という問いに対する答えは二択ではない。幻なのは、心と世界の間に無自覚に差し込まれた解釈の層だ。その層が厚くなるほど、現実は歪み、苦しみは増える。逆に、その層が薄くなるほど、世界はシンプルになり、心は静まる。世界を否定する必要も、心を敵視する必要もない。ただ、幻を幻として見抜くこと。それこそが、現実にしっかりと足をつけて生きるための、最も確かな道といえる。
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