たとえ全てが幻影でも
我々は経験するためにある。それぞれの世界(レイヤー)を生きていかねばならない。
古来より東洋思想では、この世界は「幻」であると説いてきた。仏教では「空(くう)」「諸行無常」「諸法無我」を説き、老荘思想では「胡蝶の夢」で知られる荘子は、自分が蝶になった夢を見たのか、蝶が自分になった夢を見ているのか分からないと語り、道教では「還虚合道」を理想としている。
現代科学においても、我々の認識している世界は脳が作り出した像に過ぎないことが分かっている。目に入る光や耳に届く音波は、電気信号として脳に伝えられ、脳がそれを解釈して「現実」として認識されているに過ぎない。
つまり、我々が見ている世界は、脳が作り出した一種のバーチャルリアリティだといえる。そしてその世界は、たった数mgの化学物質を摂取することで簡単に大きく変容してしまう。
しかし、それが幻影だとしても、我々はその中で喜び、悲しみ、苦しみ、楽しみを感じている。愛する人との出会いも、別れも、全てが我々の人生を形作っている。
武術の修行においても同様だ。汗を流し、時には痛みを感じ、技を磨いていく過程は、たとえそれが幻影の中での出来事だとしても、確かに我々の心身を、ある方向性をもって変容させていく。
瞑想や武術の実践者として私が伝えたいのは、この「幻影」という考え方は、むしろ我々を解放してくれるということだ。全てが幻影だからこそ、執着から離れることができ、より自由に、より創造的に、そしてより善く生きることができるともいえる。
站樁(タントウ:立禅)の修行で感じる「気」の流れも、もしかしたら幻影かもしれない。しかし、その体験を通じて実際に心身が変化していくのは紛れもない事実であり、その連続性を感じて再現することはできる。
結局のところ、幻影か実在かという二元論的な議論よりも重要なのは、今この瞬間をどう生きるかということだろう。それぞれの修行を通じて、我々は幻影の中にあっても確かな軸を持ち、バランスを保ちながら生きていく術を学んでいる。それは単なる保身を超えて、人生を豊かに生きるための智慧となり得るだろう。
我々は単に、幻影の中で踊る影絵に過ぎないのかもしれない。しかし、その影絵は美しく、意味深く、そして何より意志を持ち得る。我々の背後には、その存在しようとする意志を継いできた、膨大な量の幻影がある。
ゆえに、たとえ全てが幻影だとしても、我々はこの一瞬一瞬を真摯に、誠実に生きていく必要があるはずだ。それこそが、制心道が究極的に目指す境地なのかもしれない。
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(武術気功健康教室|大阪府四條畷市)