神様は間違わないし怒らない
神様は全知全能。人も悪も不幸も神様が創った、なら──
神様というと、完璧で絶対的な存在を思い浮かべる人もいれば、人間の都合で作られた理想像のように感じる人もいるだろう。ただ、ここで言う神様とは、人格を持った超越者というより、宇宙や自然、あるいは生命そのものの大きな流れの象徴、この世というシステムとして捉えると理解しやすい。
自然は人間の期待どおりには動かない。晴れてほしい日に雨が降ることもあれば、努力したのに望んだ結果が得られないこともある。しかしそれを「間違い」と呼ぶのは、あくまで人間の視点に過ぎない。自然の側から見れば、ただ因果に従って現象が起きているだけで、そこにミスも意図もない。神様は間違わないというのは、出来事が常に完璧という意味ではなく、大きな秩序の中で必然として起きているという理解に近い。「起こった事は全て正しい」のだ。
同じように、神様が怒らないというのも基本的な視点だ。神様とは永遠不変の幸福と平安そのものだからである。人は不運や困難に直面すると「罰が当たったのではないか」と考えがちだが、自然は感情で人を裁くことはない。嵐が来るのも地震が起きるのも、人間の善悪とは無関係だ。もし神という言葉を使うなら、それは感情的に怒る存在ではなく、ただ法則として働き続ける大いなる流れだと言える。
この見方は責任逃れではなく、むしろ主体性を強める。神様が怒っているのではないと理解すれば、出来事を呪う代わりに原因を見つめ、自分の在り方を整える方向へ意識が向く。自然の法則に逆らえば結果が返ってくるし、調和すれば安定が得られる。それは罰でも褒美でもなく、ただの帰結に過ぎない。
また、この考え方は心を静かにする力を持つ。すべてを自分の評価軸で「成功」「失敗」と決めつけていると、人生は常に緊張と不安に満ちてしまう。しかし神様は間違わないと捉えれば、起きた出来事を一度そのまま受け止める余裕が生まれる。そこから学びを汲み取り、次の行動を選ぶほうが、はるかに現実的でしなやかな生き方になる。
怒る神を恐れるより、法則としての神(システム)を理解するほうが、人は成熟するのかもしれない。畏れは残るが、それは恐怖ではなく畏敬に近いものだ。大きな流れの中で自分がどう在るかを問い続ける姿勢こそが、信仰の本質とも言えるだろう。
神様は間違わないし怒らないという言葉は、外側の存在を語っているようで、実は人間の気の持ちようを示している。出来事を敵視せず、感情的な裁きに振り回されず、淡々と現実を受け止めてより良い調和を模索していく。その姿勢を身につけたとき、人は少し自由になり、同時により深く世界とつながれるのではないだろうか。
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