「私」とは何か

生まれた瞬間から死に至るまで、常に共にある。にもかかわらず、その正体を明確に捉えることは驚くほど難しい。日常生活では当たり前のように「私」という言葉を使い、思考し、語り、行動しているが、改めてその中身を問われると、指先から砂が零れ落ちるように、掴もうとするほどに曖昧さが露わになる。

身体を「私」と呼べるのだろうか。確かに私の手や足は「私」の一部だと感じる。しかし身体は年齢とともに変化し、細胞は絶えず入れ替わっている。十年前の身体と今の身体はまるで別物とも言える。それでも「私」という感覚は続いている。ならば「私」とは身体そのものではないのかもしれない。

では心はどうか。思考や感情、記憶の連なりが「私」を形作っているのだろうか。確かに心は「私」を語る上で大きな部分を占めている。しかし思考は絶えず移ろい、昨日の考えと今日の考えは一致しない。感情もまた瞬間ごとに変わり、記憶ですら曖昧であり、ときに改ざんされる。もしそれが「私」だとすれば、「私」は絶えず変化し続ける流動的なものにすぎない。

記憶の連続性こそが「私」を保証していると考える人もいる。たしかに記憶が失われれば、自分が誰であるか分からなくなる。だが、記憶を失った人の存在は消えるのだろうか。そうではない。その人はなおも「誰か」として存在している。つまり「私」とは記憶の総体でもない。

哲学者は「私」の正体をさまざまに論じてきた。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と述べ、思考する主体を「私」と見なした。仏教は逆に「私」という固定的な実体はなく、ただ五蘊と呼ばれる要素の集合があるだけだと説く。神秘思想では「私」とは宇宙意識の一部に過ぎず、個別性は仮初めのものであると語られる。どの立場にも一理があるが、いずれも「私」を完全には言い尽くせない。

それでも我々は「私」を生きている。主体として経験し、選択し、行為する。その体験そのものが「私」を成り立たせているのかもしれない。固定的な定義を与えることはできなくとも、「私がここにある」という感覚は誰にも否定できない。それは、海面に浮かぶ波が次々と形を変えながらも、なお海そのものであるのに似ている。

「私」とは変化し続ける流れであり、同時に絶え間なくここにある存在の証である。身体でも心でも記憶でもなく、それらを通して体験される「いま」の連続。言葉で捉えようとすれば逃げていくが、ただ生きているという事実そのものが「私」を指し示しているのだろう。

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