長文を読み書きし、身体を使い尽くす
動画やゲームばかりで、身体をあまり使わなければどうなるか──
どれだけ時代が進んでも、人が深く考え、感じ、行動するためには、自らの身体を通して世界に接することが不可欠だ。思索も表現も、頭の中だけで完結させようとすれば、やがて空虚になる。特に昨今はAIの普及により、頭デッカチな情報の価値は下がる一方だ。そして長文を読むこと、長文を書くこと、それは単に情報をやり取りする手段ではなく、自らの内奥に沈みこみ、そこから何かを汲み上げる行為といえる。それは、精神の営みであると同時に、身体の働きでもある。
長文を読むという行為には、心身の粘り強さがいる。途中で何度も意識がそれそうになる。スマホの通知音や、目の疲れ、姿勢の崩れ、あるいは無意識のうちに始まる貧乏ゆすりやため息——それらを一つひとつ自覚し、読み進めることに立ち戻る。その繰り返しによって、意識は次第に文の流れと同調していく。ただ漫然と文字を追うのではなく、著者の呼吸に耳を澄まし、自分の内側にある何かが反応するのを感じる。読書は肉体的作業でもある。眼球を動かし、焦点を合わせ続け、姿勢を保ち、時には読みながら唇が動く。長文になればなるほど、その感覚は顕著になる。読み終わったとき、少し肩がこっていたり、腰が痛くなっていたりすることに気づくかもしれない。それでいいのだ。身体を通して読むからこそ、言葉が血肉になる。
書くことも同じである。長文を書くということは、ただ言葉を連ねるのではなく、自分の思考の動きを自分自身で追いかけるということだ。言葉にしようとするとき、人は初めて自分が何を考えていたのかに気づく。あいまいだった感情や、未整理だった記憶が、書くという行為の中で形を与えられていく。最初の数行は何も出てこないかもしれない。だが手を動かし続けることで、思考は徐々に輪郭を帯びてくる。書き手は、脳だけでなく、指や背筋、視線の動きまでも総動員して、自分の内にあるものを探り続ける。キーボードを打つ音、ペン先が紙を擦る音、それらが自分の深層と外界をつなぐ導線になる。思考とは、身体が生み出す行為でもあるのだ。
「頭を使うこと」と「身体を使うこと」は、しばしば別のものとして扱われる。しかし実際には、思考は身体の営みから切り離せない。集中し続けることの苦しさ、言葉を探し続けるときの適度な緊張、長時間にわたって椅子に座り続けることで感じる重さ——それらすべてが、深く考え、何かを表現するために必要なプロセスである。思考を深めるには、身体が必要だ。長文を読むこと、書くことを避けるというのは、つまり、身体を使って考えることを避けているということでもある。
身体を使い尽くすようにして読む。身体を使い尽くすようにして書く。その営みの先にだけ、言葉が単なる情報ではなく、感情を宿し、魂を打つ力を持ち始める瞬間がある。短く、軽く、即時に消費される言葉に囲まれた時代だからこそ、あえて長く、重く、自分の肉体ごと通すような読み書きをすることが、我々の思考と存在の輪郭を守ってくれるだろう。
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